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■ 「手帳」 (詩集 『マザー』ポプラ社より) 藤川 幸之助
 
■ 音楽 家高 毅
    BLUE
(Sword Wind 風の剣に乗せてより)
■ 語り 村山 仁志
■ 構成 松本 篤彦

母が決して誰にも見せなかった手帳がある。
黒い背張りの古い装幀の手帳である。
私がその手帳をのぞき込むと、母はすぐ閉じてしまう。
それは、いつも母のバックの底深く沈めてあった。
寝るときは、枕元に置き、見張るように母は寝た。
その手帳には、父と兄と私の名前と誕生日、年齢、電話番号が、
それぞれ見開きのページに大きく書いてある。
それらの後には、自分の兄弟姉妹や父の兄弟姉妹の名前がならべてびっしりと書いてある。
その名前の一つ一つの後には、きちんと丁寧に「さん」と書いてある。
そして、手帳の最後には、「さん」が唯一付いていない自分自身の名前が、
ふりがなを付けて、どの名前よりも大きく書いてある。
その名前には、上から何度も鉛筆でなぞった跡がある。
母は、何度も何度も、自分の名前を覚え直しながら、
これが本当に自分の名前なんだろうかと、薄れゆく自分の記憶にほとほといやになっていたに違いない。
母の名前の下には、鉛筆を拳で握って押しつけなければ付かないような、
黒い小さな点がある。その黒点は、二・三枚下の紙も凹ませるくらいくっきりと母の無念さを写し出して残っている。

その手帳の存在に気づいたのは、父・母・兄・私の四人で話をしていたときのことだった。
どんな話をしていたかは覚えてないが、母が何度も同じ事を聞いてくるものだから、私たちはうるさくなって、
母をほったらかしにして三人で話を進めていた(のだけは覚えている)。
母が、病気だなんて知るはずもなく。とにかく、三人の話を聞こうともせず、自分の話をはじめようとする母に、
私はいらだって、「自分の話ばかりするのはやめてくれ」と冷たく言い放った。
考えてみると、三人の話についていくことができず、自分から別の話を切り出すしかなかったのであろう。
そんな母を理解しようともせず、邪魔者にして、三人の話ははずんだ。「ちょっとあんたは、だまっときなさい」と父に言われ、
「母ちゃんちょっと静かにして」と兄に言われ、
「うるさかね」と私に黙殺されて、母は黙って、理解できない言葉に頷くふりして、私たちの話に耳を傾けているしかなかった。
 ふと気づくと、話に夢中になっている間に、母がいなくなっていた。
トイレにでも行ったのだろう、と思ったが、あまりにも長いこと帰らないので、探してみると、母は三面鏡の前で何かを読んでいた。
声を出して、何度も、私の名前を唱え、その後に、ページをめくり、父の名前、兄の名前を
何度も何度も繰り返し唱え、そして、最後に自分の呼び名である「おかあさん」を何度も何度も何度も唱えて、
ふと立ち上がり、振り返った。
母の手には、手帳が広げられて乗っている。
母は、私に気づくと、慌ててカバンの中にその手帳を押し込んだ。
記憶の中から消え去ろうとしている自分の連れ合いの名前や息子の名前を必死に覚え直し、
自分の呼び名を忘れまいとし、また三人の話に入ろうとしていたのだ。
母は、三人の所にもどってくるなり、私の名前を呼んだ。
いつもは「こうちゃん」と呼ぶ私の名前を「藤川幸之助さん」と呼んだ。
父と兄は驚いたが、私はさっきのこともあって、わざと「なあに?」と言ってみた。
その日、初めて母にとって成り立った会話。
母は安心した顔をしていた。
父と兄の不安そうな顔。
私も心の中で、これは何かの間違いだと思っていた。

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