「悲しみ」と「悲しさ」の違い/詩「悲しみ」

◆久しぶりにブログを更新しました。1年2ヶ月間休みました。この期間、全国いろんな所に講演に伺いました。今日からこのブログをゆっくりとはじめたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。◆今日は、講演でもよく朗読する詩「悲しみ」と「悲しみと悲しさ」というエッセと講演会案内を。◆講演会の案内を以下に書いております。詳しくは写真をクリックしてポスターで確認してください。久しぶりの長崎市と京都市での講演です。ご来場をお待ちしています。2017/02/17

◆2017年2月18日 (土) PM 2:00〜PM 4:00
会場 長崎県長崎市栄町2-22 長崎市医師会館 7階講堂
講演内容 長崎市・市民健康講座
問い合わせ 長崎市包括ケアまちんなかラウンジ
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◆2017年2月26日 (日) PM 2:00〜PM 4:00
会場 京都府京都市 京都KBSホール
講演内容 京都福祉サービス協会・ホームヘルプ事業設立 30 周年記念講演会
問い合わせ 社会福祉法人 京都福祉サービス協会 人材研修センター  電話:075-823-3341 FAX:075-823-3349
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悲しみ

藤川幸之助
公衆便所で母のオムツを替えた
「カッカッカッ」と
母が笑うように何か言ったので
「母さんのウンコだぞ」と
母を叱りつけたが
「カッカッカッ」と
まだ笑い続けるので
オムツを床にたたきつけた
オムツを替え終わり
ウンコの飛び散った床を拭いた
その間に母がいなくなってしまった
「もういいかげんにしてくれ!」
母を捜しながら
このまま母がいなくなれば
私は楽になるかもしれないと
半日探した
母は亡くなった父と二人でよく行った
公園の芝生の上に座って
遠くに流れる夏の雲を見つめていた
さっきまで死んでもいいと思っていた
この私がよかったよかったと
母の手を取り涙を流した
母はまた「カッカッカッ」と笑った
だから私には分かるのだ
他人には無意味な母の叫びでも
それが悲しみだと
あの笑っているような母の声は
ぼけた自分をまのあたりにした悲しみだと
私にはしっかりと分かるのだ
徘徊と笑うなかれ』(中央法規出版)より
◆「悲しみ」は「悲しさ」とは少しばかり違う。「重さ」と「重み」で考えると分かりやすい。「赤ちゃんの重さ」となれば何千グラムとなるが、「赤ちゃんの重み」となると赤ちゃんを抱いている者の感覚や思いが「重み」という言葉の中には含まれている。◆このように、「~さ」は相対的で客観的な表現で、それに比べ「~み」が付くと、感覚的で主観的な表現に変わる。つまり、「悲しみ」とは、抱(いだ)いているその人が感じ、その人にしか分からない「悲しさ」なのだ。◆ある人からこんな話を聞いた。認知症の母親がお漏らしすることが多くなり、初めてオムツをはめてあげた時、ボケて何も分からないと思っていた母親が突然「こんなになってしまって、お前に迷惑をかけるなあ。ごめんね。ごめんね。」と、何度も何度も謝りながら泣くのだそうだ。言葉のない私の母の心の叫びを聞いたように感じた。◆母は思いを言葉にできないだけで、私にオムツを替えられながらこの母親と同じような気持ちなのではないかと思ったのだ。認知症になって母には母にしか分からない「悲しみ」があるのではないだろうか。私には到底分からない母の「悲しみ」。母にしか分からない言葉にならない母の深い深い「悲しみ」。言葉のない母の本当の思いに私は寄りそっているだろうかと後悔のように思ったのだ。
(詩・文/藤川幸之助)
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